以前の私は、「自分自身を知る」と言われても、今感じている自分が自分であって、それ以上に自分を知るとは、どういうことなのか、これ以上の自分があるのだろうか、まったく理解できませんでした。
「汝自身を知れ」という言葉は、高校の哲学時間に初めて聞いたように思う。
デルフィのアポロン神殿に書かれていた言葉だという。
人生とは何か? どうしてこんなにつらいことがあるのか?
小さいころから何かと苦難続きだと感じていた私にとって、哲学の時間はすごく興味深いものであったが、いざ蓋を開けてみると、さっぱりわからない。
結局、誰に聞いても人生とはつかみどころのないものだ、とあきらめて、やり過ごした10代。
20代の頃、宗教関係の方に声をかけられて、数か所、どんなものか話を聞いてみたことがあった。
キリスト教、浄土真宗、インド、、、しかし、それに信心している方々を横目に、どれだけ寄り添って話を聞いてみても、今一つ私にはピンと来なかった。
神や仏の存在や人生の意味が、私の感じている感覚とずれていたのではないかと、振り返って思う。
それ一筋で、精進している方々が、ある意味うらやましかった。
人生における苦難の起こる意味、それは自分自身の課題であり、自分が成長するために存在する、とはどこかの本で知ったこと。
しかし、どれだけの苦難を乗り越えても、次々にやってくる苦難に閉口してしまうことがあった。
言ってみれば、「暖簾(のれん)に腕押し」。
苦難を乗り越えても、達成感を感じることがあまりなかったか、感じてもすぐにその感覚がどこかに行ってしまっていたのだと思う。
しかし、今は少し違う。
一つ一つ、自分のやっていることが、確実に積み重なって、確実にどこかに向かっているという感覚がある。
それはどうしてなのだろうか?
自分自身を知り、内なる自分の意志に従って、生きているからなのだと思う。
目の前に起こる事象が、以前ととらえ方が違ってきているのだと思う。
そして、過去でもなく、未来でもなく、今現在にしっかりと立って、生きることが少しずつできるようになってきているからだと思う。
生きることが楽になった。
手放したものは多かったが、必要ないものはなくても大丈夫。
以前のような生き方を続けていたら、私は生きながら死んでいただろうと思う。
死ぬ間際に後悔していただろうと思う。
黒柳徹子さんは、性善説を信じているそう。
私も、そう思う。
私たちはみんな、善なる存在。
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